おやすみ、いい夢を。

デンマークで留学をしていました。フォルケホイスコーレ。保育。福祉。ひっそりと。

2019年

 

今年も終わるね。律儀に。

 

◎最近の事

 

忙しかった。

ただただ忙しかった。

朝起きてから寝るまで

できるだけ職場にいて

できるだけ考え事をしていた日々だった

 

 

何で人に思いやりを向けるのか?

保育士だからこその視点とは?

どうしたら保護者に伝わる?

 

 

頭がプスプスいわせて文章を絞り出して、話をする

通信簿のようなものを書くために。

 

 

最初は楽しかったんだ。

文章を書くのは好きだしね。

 

 

 

 

 

圧倒的な“今を生きている”感。

私の忙しさがいきいきする時は大体そういう時だ、

 

 

 

今に集中できる。

いや、集中せざるを得ないみたいな。

 

未来や過去に逃げがちな私だから、

こんな今を続けていけば色々とうまくいくんじゃ?

なんて思ったし、

2020年は今を生きることを目標にしようだなんて思ったくらいだけど

 

 

 

 

 

現場の事

ワークショップの事

餅つきの事

フェスの事

誕生日カードの事

卒園式の事

 

どんどん膨れ上がっていく

【やらなければならないこと】と【かんがえなければならないこと】

 

 

そりゃあ

感情はすり減るし、心も荒む。

 

 

 

 

 

 

違う違う。

仕事が楽しいとか充実感を感じるのはいい事だけど、

今を生きることと仕事にのめり込むことは一緒じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎人間関係の事

 

 

そんなこんなで仕事を納めて

毎年集まってるメンバーで忘年会だった。

毎年アホみたいに年末年始は飲み会に参加してたけれど、今年は絶対の人たちだけにしてみた。

 

 

 

友だちと過ごすのは楽しい。

お腹痛くなるまで笑う。

勿論本当におもしろいと思って笑ってる。

 

でも、その心の内側は

心底帰りたいだった。

 

 

10人以上の飲み会も

うるさい居酒屋も

同じ場にいる子の悪口も

結婚してるとかしてないで評価されるのも

チャらさや遊んでることが評価されるのも

 

 

自分の拒否反応にびっくりした。

 

 

 

朝までカラオケの流れだったけど

半ば強引に帰宅する。

 

 

ああ、私はもう今まで築き上げてきたものはなんだったのか

人付き合いを大事にして生きてきたのにこれからどうすればいいのかと

絶望だった。

 

 

もちろん、その子たちの事が嫌いになった訳ではない。

 

 

涙が出そうになりながら無理やり眠った。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして今日。

朝からお風呂と台所と窓をピカピカに磨いて

一昨日も会った親友とカラオケに行って懐かしい歌を歌って

そのままおいしいご飯を食べた。

 

 

 

 

全部最高だった。

掃除をすると自分を労ってる気がする。元の状態に戻すという作業は自分の荒んだ気持ちも元ある場所に戻してくれるようだった。

 

 

やっぱり音楽もいい。元気もでるしスッキリする。

そうだった、困った時はいつも音楽が救ってくれるんだった。

美味しいご飯も。

親友も。

 

 

 

 

 

やっぱり人も物も事象も

そんなに多くなくていいんだろう。

ほどほどで。

やっと心があるべき場所に戻れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

◎2020年

 

 

語呂がいいよね。

今年は30歳になる節目の年だし。

 

 

 

だから、5年日記を買った。

 

 

思い出になった過去は、

1年とか、大学生の時とか、学生時代とか。

 

大きくまとめられがちで、

1年が1日の、1時間の、1分の、1秒の積み重ねであることを忘れてしまいそうになる。

 

 

年末になると、

日々がつらつら流れていってしまう事が妙に怖くなるんだ。

終わりがあるから気づけることだし、一年の区切りに感謝をしなきゃいけないね。

 

 

そして、2020年は

今を生きるというよりも

私を生きることを頑張りたい

と今思っている。

 

 

 

 

私はどうありたいか

私はどうしたいか

 

今をどう過ごしたいか。

 

 

 

 

 

人間関係も仕事も、

自分がどうしたいかが分からないから距離が掴めないんだ。

自分がちゃんといないから。

 

 

 

 

 

 

ちょっとずつ図太くなって、

ちょっとずつしなやかになれればいい。

 

 

 

 

 

 

何にきれいと感じるか

何を心地よいと感じるか

何におもしろいと感じるか

 

 

 

 

 

 

自分と話をしていこう。

 

 

 

 

 

 

 

余裕が無いと

どうしても嫌なことやマイナスな事への反応が多くなりがちだけど

嫌なこともいい事も

ふくよかに受け取ろう。

 

 

 

 

 

 

 

どうぞお手柔らかに。

 

良いお年を。

 

 

 

 

 

 

 

若さ

 

 

 

今日は職場の同僚とご飯に行ってきた。

 

 

なんだかもう言葉も乱雑になる程

心が乱れた。

 

 

 

 

最近はもう音が辛いから

居酒屋に行くのも辛くて

職場の飲み会も楽しくないし

避けていたのだけど

前にドタキャンしてしまった飲み会。

断りづらい…。

 

 

 

 

案の定ガチャガチャしていてしんどいな、、

と思っていたのだけど

 

 

加えてどーしてもどーしても

苦手な同僚がいて。

 

 

 

声の大きさも

ペースも

とにかく激しくて頭がキンキンしてくる。

 

 

 

 

話の内容にもついていけず

何が面白いのか途中分からなくなって

笑顔も引きつる。

 

 

 

 

 

 

こんな時湧いてくる感情がいやだ、

 

 

合う合わないはやっと分かってきたから

自分にとって苦手な人なのだと前から認識していたが、

 

 

同僚だしそれなりにうまくやっていたい。

 

 

 

いらいら

もやもやして

耐えきれずにいる今だ。

なんなんだ?若さのせい?

こんなに心が乱れるのはなんでなんだ?

 

 

 

 

 

帰ってきて心を鎮めるために

今日買った糸井重里の本を読んだ。

 

 

断る理由をうまく言えなくても断っていい。

そうじゃないと「うまく言えない気持ち」はなかったことになってしまう

 

 

 

そうだよな、

いつも言葉に救われるんだ。

 

 

 

 

 

まだイライラしてるし

辛さは消えないけど

 

言葉の力にいつもちょっとの余裕をもらう気がする。

距離

 

こんな事があった。

 

子ども達と公園に出かけた。

帰り道、声をかけるとそれまで関わりのなかった子達が手をつなぐ。

嬉しそうに手をつないでるその子達。

でもどうしても大人の都合でその子達のペアを解消し、違う子と手をつないでもらった。

元々手をつないでいた子の一人は怒ってへそをまげる。

後でごめんね、とつたえると「一度も話した事なかったんだけどね、手をつないで仲良くなったんだ。」と答えた。

 

 

 

 

 

ああ、そんな仲良くなり方があるのか。

私はもう、そんな感覚とっくに忘れてしまった気がするよ。

私たち大人は、どうしたって探り合いから始まる。

どんな人なのか、会話から、表情から、ファッションセンスから、清潔感から。様々なものを基準にして。今までの経験と擦り合わせて。

 

 

 

でも、そんな事仲良くなるのに必要ないのかもしれないと気付かされた。

経験がじゃまをする事って多々としてある。

 

 

 

生きていると辛い事なんて山ほどあって。

今まで作ってきた関係がいきなり崩れたり、大切にしていた物がまやかしだったかもしれないなんて事も沢山あった。

 

 

 

 

生きていくと心もどんどん複雑になっていくことなのかもしれないな。

良く言えば深みがでるということ。

そんな深みに、複雑さに

人間らしさを感じて人の魅力を感じたりするのだからなんとも言えないけれども。

 

 

 

でもコミュニケーションってもっとシンプルでいいんじゃないかと思ったんだ。

相手を信頼するとか

壁をつくらないとか。

当たり前でシンプルな事が難しかったりするんだ。

 

思えば、

デンマークにいった事だって、

フェスで円陣を組んで音楽を聞くことだって。

私の求めている瞬間ってそういう一瞬の深いつながりみたいなことなのかもしれないなあ。言語でわかりあうよりももっともっと深くて感覚的なところ。

 

 

 

繋がる手から、伝わる何かがあるのかもしれない。

子どもだからこそ伝わる言語があるのかもしれない。

 

 

 

子どもたちの無垢さに、いつも憧れを感じる。

人生をよくするヒントをもらっているようだ。

こういう時、保育士はいい仕事だと思う。

 

ごっこ遊び

 

 

小さい頃ごっこ遊びが大好きだった。

お姉ちゃんが骨折したとか

よく分からない設定で毎日ごっこ遊びをする。

 

 

そんな時、私が選ぶ役は大抵お母さんか、お姉ちゃんだったと思う。

妹とか赤ちゃんとかペットじゃない。

 

 

 

 

ライダーになって戦いごっこをする子もいれば、

忍者になる子もいる。

 

 

他の何者かになってみたいという気持ちは本能なのだろうか。

 

 

 

 

大人になった私は、

誰かになりたいとか

こういう顔に生まれたかったとか

そんな感情がどうも醜く感じてしまう。

 

 

自分に自信が無いから

他者になりたいのでは?と。

そんな時、いつも苦しくなっていた。

 

 

 

でもごっこ遊びの原点には憧れとか夢とかがつまっているような気もするんだ。

あ、違うかな、

子どもの頃は憧れと夢がもうちょっと近いところにあるのかもしれない。

 

 

 

誰かになりたい

こうなりたい

 

明確なビジョンは自分を苦しめる気がしてしまうんだな〜

だって自分は自分だし。

どんなに頑張っても他人にはなれない。

 

 

子どものごっこ遊びをどう捉えたらいいのだろう。むずかしい

内へ、内へ。

 

 

気温が低くなっていくのに合わせて

内へ

内へ。

 

潜っていく。

 

 

自分の声が

考えていることが

こだまして響いてくる。

 

音楽がぐさぐさ刺さって

言葉が浮かぶ。

 

自分は誰なのか

何をしたいのか

何がほしいのか。

 

分からないけど

 

満たされたくて満たされたくて

しょうがない。

 

 

 

 

 

 

どうしたって光が強いと目が眩んで見えなくなるものね。

暗いところにいるとその内目が慣れてきてよく足元が見えたりするんだ

 

 

 

周りにある今だけ

手が届くところだけでいい。

 

 

惑わされないように

 

ここに立っていられるように

 

心が痛む

 

 

最近お友だちとキャンプに行ったのだけど

その時自分にすごく残った言葉。

 

 

 

酔っ払った時に同僚から出る他の園の悪口に

何故か辛くなっていた私。

 

 

その園に思い入れがあった訳でもないし

いわば関係ないのだけど

 

何故かしんどかったんだ。

 

 

 

その矢印が自分に向くのではないか?という不安からかなと思っていたのだけど、

友人は

「否定的な言葉って心が痛むよね。」

 

と言った。

 

 

 ああ、それだ。と思った。

 

 

 

言葉は面白いけど時に凶器のように襲いかかっている。

いつもまあるいボールがまっすぐ投げられる訳ではなくて、

時にはとげとげのボールが変化球で飛んでくる。

 

 

自分に投げられたボールじゃなくても

当たったら痛い。当たり前だ。

 

 

自分が投げたボールが丸い物でも届く時にはとげとげになってる事だってある。

相手あっての事だものね。

 

 

 

 

 

 

 

だからと言ってどうこうするわけでもないんだけどね。

 

凶器として使わなきゃいけない時もくるだろうし

うまく付き合ってくみたいな話なんだろう。

 

 

自分が傷ついた時は、

ああ、私いま心が痛んだ。

って掬い上げられるってくらいなんだろうな。

 

もはやそれも必要なのかな。

 

もやもやしていて気づかない方が幸せなこともあるのかも。

 

 

 

 

ああ、しまった。

話の着地点がわからなくなってしまった。

スッキリ終わりたいのに。

 

 

 

 

 

 

まあそんな時もあってもいいよね

混沌

 

 

私は今保育士をしている。

 

現場に入って帰ってきた時、

私の頭の中は

繋がり会えた嬉しさだったり

一緒に遊んだ楽しさだったり

やりきれない悔しさだったり(これが大半)

 

いろんな感情でカオス。

 

 

 

 

消化したり忘れても

どんどん毎日いろんな事が起きて

感情にまみれてもがく日々。

 

最近は特にそれがひどかった。

 

心も身体も余裕はなくいつも精一杯。

 

 

 

 

 

 

 

それでも最近いいことに気づいたんだ。

 

私やっぱり言葉が好きだし

文章書くの好きなんだよね。

 

 

 

障がい者施設も、海外も、保育士も

言葉に重きを置くよりも

ノンバーバルなところのコミュニケーションを大事とすると思ってたから

 

何となく避けてたところがあるけど

 

やっぱり本を読むのも

話すのも

文章書くのも好き。

 

 

 

最近職場で文章で褒められる事が多くなったからというのもあるのだろう。

 

 

私は自分の描く絵とかセンスとか作るものに

いまいち魅力を感じられないんだけど

文章だけは

後で読み返してふふふ。となる。

(ちゃんと時間をかけて書いた文章だけだけど。)

 

子どもへの想いもいっしょに言葉として出すからというのもあるからだろうな。

 

 

だから自分の想いを言葉にするって

当たり前のようだけど大事だと思ったんだ。

書かなくなると書けなくなるものだったりするからね。

 

 

 

言葉にしていきたい、

強く思ってみる。